ニュートンの周り ハレーからライプニッツまで
アイザック・ニュートン卿は、科学界で最も影響力のある人物の一人で主に運動法則と万有引力の研究で知られ力学の基礎を築いた人物である。
ニュートンの血縁関係
ニュートンは早産で生まれ父親は生まれる前に亡くなっている。母親のハンナ・エイスコーはニュートンが3歳の時に再婚し、ニュートンは母方の祖母に預けられることになった。
この幼少期の育児放棄は、ニュートンの人格に大きな影響を与え、彼は深い不安と心配を抱え、それが後年、人間関係に現れてきたという見方もある。
継父が亡くなると、母は3人の子供を連れて戻ってきた。様々な証言から、ニュートンは自分を捨てたと思われる母親を深く恨んでいたようだ。このような母との関係が彼の孤独を助長したのかもしれない。
例外的に姪のキャサリン・バートンの関係は、彼の生涯で数少ない親密で永続的な血縁関係の一つであった。母親が亡くなった後、バートンはロンドンでニュートンと暮らし、ニュートンは父親のような役割を担っていた。
ニュートンの仕事仲間 ハレー彗星のハレーも
教育関係では、ケンブリッジ大学との関係が彼の人生の重要な側面であった。
ケンブリッジ大学の微積分や幾何学に精通した数学教授で、名誉あるルーカス教授でもあるアイザック・バローはニュートンの師匠であった。バローはニュートンの非凡な才能を最初に見抜き、初期の研究を奨励・指導する重要な役割を果たしたと言われている。
成人したニュートンは結婚することもなく孤立がちであった。
親密な人間関係は多くなく軽蔑や意見の相違を理由に交友関係を解消することもしばしばであった。そんな中、スイスの数学者ニコラ・ファシオ・ド・デュイリエとは仲が良かったことがある。ファシオはニュートンの研究成果をもとに重力の仕組みを説明することを提案したこともあるほど一時は親しい友人だった。しかし、その友情は明確な理由もなく突然終わりを告げる。
また、当時の著名な天文学者であったエドモンド・ハレーとの関係も注目される。(彼の名前はハレー彗星で知っている人も多いと思う。)
ニュートンとハレーは建設的で互いに尊敬し合う絆で結ばれていた。
ハレーはニュートンに『プリンキピア・マテマティカ』を出版するよう説得し、王立協会が資金を提供できないときには、その出版資金を提供することもありました。ハレーの働きかけは、ニュートンの画期的な研究を世に送り出す上で大きな役割を果たした。
フックにライプニッツ、ニュートンのライバルたち
逆に有名な対立は王立協会のメンバーであった当時の重鎮であるロバート・フックとのものである。
二人は、光の性質や惑星運動の力学など、いくつかの科学的な問題で意見が対立した。ちなみに今ではどちらも正しいことがわかっているがフックは光は波動だと唱え、ニュートンは粒子だと唱えていた。
フックの死後、当時王立協会会長であったニュートンはフックの痕跡をとにかく消そうとしていたほどだ。こうした行為はフックの科学への貢献を意図的に軽視していると一部から非難もされた。
フラムスティードとの確執も有名である。ジョン・フラムスティードはイギリスの天文学者であり、彼のデータはニュートンの研究に大きく貢献した。
しかし、ニュートンが『プリンキピア・マテマティカ』の制作のためデータを要求したところ、フラムスティードは時期尚早で未完成であると感じたことから要求に応えず関係は長年にわたって悪化してしまう。ニュートン側は彼のデータを無断利用したなどともいわれ、また、フラムスティードはニュートンにデータを隠すなどもし、こうして二人の仲は険悪になったといわれる。
20世紀で例えるなら、DNAの発見におけるワトソンとクリック側とロザリンド・フランクリンのような関係といったらわかりやすいかもしれない。(データ提供側のロザリンド・フランクリンにノーベル賞が送られていない、女性差別といった文脈の話でも、よく本やメディアで取り上げられる話である)
もう一つの重要な関係はドイツのゴットフリート・ライプニッツとの関係である。
この2人はどちらが先に微積分を発明したかをめぐって激しい論争を繰り広げた。王立協会は最終的にニュートンを支持したがヨーロッパの科学界、特に大陸の科学者の多くはライプニッツを支持していた。
あの啓蒙思想家とも知り合い、造幣局局長ニュートンの晩年
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのニュートンの教え子たち、特にルーカス講座の後継者であるウィリアム・ウィストンが彼の孤立と寡黙さを語っている。
ニュートンと学生たちとの関係は、彼の孤独な性格を反映してか、非人間的で飄々としたものであったという。ウィストンは、後にニュートンを、孤立無援ではあるが、優れた教授であったと回想している。
こうした評判がある一方でケンブリッジ大学をカトリック化しようとするジェームズ2世に対して、ニュートンは断固として抵抗した。(ジェームズ2世って誰?世界史では必ず出てくる有名な名誉革命で追放されることになる王だ。)
ジェームズ2世との関係はぎくしゃくしたものになったがニュートンは大学のプロテスタントの原則を守るために重要な役割を果たしたことで多くの賞賛を浴びてもいた。
晩年、ニュートンはロンドンに移り、王立造幣局の所長(後に局長)に就任した。ここで彼は、金融家であり経済学者でもあった啓蒙思想家のジョン・ロックと仕事をした。密接な関係を築き意見が対立することもあったが尊敬の念を抱いたという。
ニュートンは交際相手や結婚を望まなかったようだ。
このことが良いか悪いかの判断はおいておいて、孤独な性格をさらに強固なものにしたと同時に、仕事と探求に専念する彼の偉大な人生を確実なものにしたともいえるのかもしれない。
備考
アイザック・バロー
17世紀のイギリスの数学者で微積分学の業績とニュートンの教師として有名。
彼はケンブリッジ大学でルーカシアン講座を開いた最初の人物である。バローの研究は後に弟子のニュートンやライプニッツが発展させた微積分の基礎を築いた。また、光学や幾何学にも貢献した。
エドモンド・ハレー
ハレーはイギリスの天文学者、地球物理学者、数学者。ハレー彗星の軌道を計算したことで知られる。
イギリスで2番目の天文学者であり、天文学、気象学、航海学に多大な貢献をした。ニュートンの法則を用いて天体の軌道を計算した彼の仕事は画期的で、ニュートン物理学の受容を確固たるものにした。
プリンキピア・マテマティカ
“Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica”、通称プリンキピアは、アイザック・ニュートンによる3冊の著作である。
1687年に出版された。古典力学の基礎を築き、科学史上最も重要な著作のひとつ。運動法則と万有引力の法則を定式化し、それらを用いて惑星の軌道や潮汐など幅広い物理現象を説明した。
ライプニッツ
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツは数学、哲学、法学など様々な分野に多大な貢献をしたドイツの多才な人物である。
主には数学者、哲学者としてどちらの分野でも有名な人物だ。
彼はニュートンとは別に微積分を開発した。彼の微積分の表記法は今日使われているものである。ライプニッツは哲学にも貢献し特に形而上学ではモナドの概念を導入したことで知られている。
ルーカシアン講座
ルーカシアン数学講座とは、ケンブリッジ大学のルーカシアンチェアを保持する数学教授による公開講座である。
1639年から1640年までケンブリッジ大学の国会議員であったヘンリー・ルーカスが1663年に創設した。
この講座にはアイザック・ニュートン、チャールズ・バベッジ、スティーブン・ホーキング博士などの英国の著名な数学者が就任している。
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