アインシュタインの人柄、日本への原爆

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アインシュタインの人柄

アインシュタインは幼少期に非常に内向的な性格を持ち、言葉を話すのが遅かったことで知られています。彼は5歳になるまでほとんど言葉を発せず、その沈黙は彼が言葉の意味を深く理解し、自らの思考を形成するための準備期間であったとも考えられています。

どういうことかというと彼は言葉による思考が遅れたことで物事を視覚的に想像する能力を養い、これが彼の科学的発見の基盤となったという見解があります。こうした視覚的思考は複雑な物理学の問題を解決する際に重要な役割を果たし、彼の理論的なアプローチを支える要素となったのです。

Albert Einstein said “I agree” , Color Video

アインシュタインは、学校教育に対して反抗的な態度を示し、よく教師と衝突していました。彼は大学でも授業にほとんど出席せず独自の方法で学び続けました。このような反抗的にも見える姿勢は彼が型にはまった教育システムに適応できなかった、またはする必要がないと考えたことを示しています。いずれにしろ結果的には彼の独自の理論やアイディアを育む土壌となったのは明らかです。

彼は孤独を好みその中で新しいアイディアや発見を得ることができました。彼にとっての孤独は思索を深めるための貴重な時間であり独自の理論を構築するための重要な要素でした。量子論、量子力学の界隈と比べるとこれは明らかともいえます。向こうは多人数で理論を切磋琢磨し拡げていった一方で、特殊相対性理論、一般相対性理論と相対論は、先人の助けこそあれ、アインシュタイン一人で組み上げていった理論です。もちろん他にも彼の業績はあります。

繰り返しになりますがアインシュタインは視覚的なイメージを重視し、複雑な物理学の問題を映像で捉える能力に長けていました。彼はこの手法を「思考実験」と呼び内なる視覚的世界と外部の理論的枠組みを結びつけることで、抽象的な概念を具体化していきました。

アインシュタインの人種差別発言

アインシュタインは世界各地を周り旅行日記を付けていました。

こういったプライベートなものを勝手に他人が見てどうこう言うのはそれの方が問題があるとは思いますが、色々と現代では彼の旅行日記についての批判が海外メディアなどではされることが多いです。

例えば、彼が中国人を「勤勉で、不潔で、鈍い」と表現するなどの人種差別的な記述が含まれていました。彼は中国の子どもたちについても「活気がなく鈍い」と記しています。こうしたことに関しては海外メディアから文化的な違いを否定的に捉えたといった指摘がされています。そうした指摘の仕方の方がむしろより差別的にも見えますが。

ほかにも彼の記述の中で中国人を「機械のようだ」と評したり「馬のように働くが、理性的に悩んだりしない」と述べていて、彼らの労働観や生活様式への彼なりの所見を述べています。

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こうしたアインシュタインの日記は1922年10月から1923年3月にかけてのアジア旅行中に書かれたもので、彼の旅行経験が詳細に記されています。この期間に彼は中国、日本、スリランカなどを訪れ、それぞれの文化や人々についての印象を記録していました。

アインシュタインは後にアメリカで人種差別に反対の立場を取るようになりましたが、若い頃の彼の見解は異なっていたと捉えられることが多いようです。彼は人種差別を「白人の病気」と呼び、後の人生では公民権運動を支持しています。無作法なメディアなどではこうしたことを彼の変化と考え、成長などと評することさえあるようです。 

東洋人に対する蔑視的な内容などとよくまとめられる記事が多いのですが中国人にしても1から10までこうした発言をしていたわけではないし、日本人に至っては上品で思いやりがあり気取らないといった印象を述べています。

中国にしても広大な人口の国です。もしかしたら彼が降りた地域が少し変わっただけで述べた印象は違ったかもしれません。一概に東洋人差別主義者のようにアインシュタインを扱おうとする意見は明確に誤りだといえるでしょう。

アインシュタインと日本への原爆

1939年、アインシュタインはナチス・ドイツが核兵器を開発する可能性を懸念し、アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領に手紙を送りました。

この手紙は、ドイツの科学者たちが核分裂を発見したことを受けてアメリカが核開発を進める必要があるという内容です。この行動が後に日本の原爆投下につながる「マンハッタン計画」と呼ばれる原爆開発プロジェクトの始まりとなり、歴史を大きく変えることになりました。

しかし同時に、アインシュタインは原爆の使用が戦争を終結させるための手段として正当化されるべきではないとも考えていました。彼は戦争の終結が人類の未来にとって重要である一方で、その手段としての核兵器の使用は倫理的に許されないと主張しました。

ただ、こうしてアインシュタインの提言と助力によって原爆は完成し、日本の住宅ばかり民間人ばかりの大都市2つに2発投下し人類史上最大規模の大量殺戮が行われました。

その後アインシュタインはアメリカの原爆開発を事実上主導していたことを深く後悔する立場を取り、戦後は核兵器の使用に対して強く反対する活動を始めました。彼は原爆がもたらした壊滅的な被害を目の当たりにし、その影響を考えることで科学者という職業責任についても痛感していたと考えられています。

彼の後悔は内省的なただの後悔にとどまらず、その後核兵器の禁止を訴える国際的な運動へとつながっていきました。 具体的には核兵器の国際的な管理を提唱し、核兵器がもたらす恐怖と破壊の可能性を理解し、これらの兵器が世界平和に対する重大な脅威であると警告し続けていました。

こうした提案や運動は国際的な協力と対話を通じて核兵器の拡散を防ぐための重要なステップと見なされています。

核兵器の開発自体についもは科学者の倫理的責任を問うものであるとも考えていました。これは科学者がその発見や発明がもたらす影響を真剣に考慮しなければならないということです。 

政治的信念と活動

アインシュタインは1931年に自らを「戦闘的な平和主義者」と称し、戦争に対する強い反対の立場を明確にしていました。アインシュタインの平和主義は、彼の科学的業績だけでなく、彼の人道的な信念にも根ざしており、彼は第二次大戦後は常に人類全体の利益を考えて行動していたといえるでしょう。

Einstein speech on world peace

なんとアインシュタインは国際的な協力と理解を促進するために世界政府の設立についても支持していたほどです。国家間の対立を解消し平和を維持するためには、国際的な枠組みが必要であると考えていたからです。

あまり知られていないところではアインシュタインは社会主義を支持し、資本主義の競争と不平等を批判していました。彼は資本主義がもたらす経済的な不平等が社会に深刻な影響を与えると考え、より公平な社会を実現するためには、社会主義的な経済システムが必要であると主張しました。この視点は、彼の政治的信念の中心にあったとも考えられ、社会の全ての人々が平等に機会を持つことを目指していたのかもしれません。

こうしたことからアインシュタインは、戦後アメリカの厳しいマッカーシズムや反共主義の弾圧に反対し、知的自由を擁護していました。思想や信念の自由が民主主義の根幹であると信じ、特に冷戦時代における抑圧的な政治的環境に対して強く反対していたわけです。

人種差別に対する立場

アインシュタインは、アメリカに移住した後、特に人種差別に対して強い反対の立場を取るようになりました。彼は、アフリカ系アメリカ人の権利を擁護し、差別に対する抗議活動に参加しました。彼の立場は、彼自身がユダヤ人としての迫害を経験したことからも影響を受けているとも考えられていて、彼は人種差別を「白人の病気」と呼んで社会的な不正義を批判していたようです。

実際に言うだけでなくアフリカ系アメリカ人の権利を擁護するために積極的に行動しました。彼は、差別に対する抗議活動に参加し、特に公民権運動において重要な役割を果たしました。彼の発言や行動は、当時の社会における人種差別の問題を浮き彫りにし、彼自身の著名な科学者としての地位を利用して、より広範な社会的変革を促進しようとしました。

差別が人間社会における大きな障害であると認識し、これを克服するためには教育と啓蒙が不可欠であると信じていました。彼のこの見解は、自身の経験と彼が目の当たりにしたアメリカ社会の現実に基づいていると考えられているようです。彼は、知識が人々の意識を変え、偏見を取り除く力を持つと考えていました。この信念は、彼が公民権運動に参加し、教育の重要性を強調する理由の一つでもありました。

アインシュタインの社会主義と資本主義への見解

アインシュタインは、上記でも述べたように資本主義の競争がもたらす不平等に対して強い批判を持っていました。彼は、資本主義が個人の利益を優先し、社会全体の福祉を犠牲にすることが多いと考え、社会主義を支持しました。彼にとって、社会主義は人類の平等と自由を実現するための重要な手段であり、経済的な不平等を是正するための道筋を示すものでした

更に具体的には計画経済が社会の不平等を是正するための効果的な手段であると信じていました。彼は、経済活動が社会全体の利益に基づいて計画されるべきであり、個人の利益追求が社会的な不正義を助長することを懸念していたようです。 

そして資本主義が個人の創造性を抑制し、競争が人々を孤立させ、社会的な連帯感を損なうとも警告していました。こうした見解についてはアインシュタインだけでなく、著名なアメリカの政治学者や社会学者たちも述べているそれほどマイナーでもない見解です。ただ、このような状況を打破するためには彼は社会主義的なアプローチが必要であると信じていたようです。 

このようにアインシュタインは科学者だけではなく、戦後は実は社会主義よりの人道主義者のようなポジションでの重要な役割を持っていた人物です。

冷戦の時代においての、資本主義でも共産主義でもない、著名科学者という第三極からの彼の重要性は、アインシュタインとも交流があった哲学者のバートランド・ラッセルなどと並び重要なものだったのではないでしょうか。